病室の空気は『古参人』の話を拝聴というものに変わった。
「私はね、肉腫だったの」
肉腫も大きくいえば癌である。
専門的には、癌は皮膚、消化管粘膜、尿路系上皮細胞など、いわゆる上皮細胞が悪性化したものをいう。
が、肉腫はこれと対をなしていて、血管内皮細胞、繊維芽細胞などが悪性化したものである。
「もともと子宮筋腫があったのが、急に大きくなったのね。で、他の病院で子宮筋腫の手術を受けたんだけど、医者は、癌なんか疑ってもいなかったみたい。手術して、肉眼的に見てもきれいなんで、コブを取ってすぐにおなかを閉じたの。ところが、それを病理検査に出したら肉腫ってわかったのよ」
癌だと解っていたら、すぐその場で病理検査に出し、どこまで浸潤しているかによって手術を拡大したり、放射線をかけたりできたのだろう。
肉腫とわかった『古参人』もこの病院を紹介され、放射線治療を受けた。
ところが、もともと弱い腸に副作用が現れた。
「レントゲンってさ、躰の表と裏と両面からかけるじゃない。最後のころ、お尻の皮膚が茶色になってたわ。要するに火傷よ。退院してから腸の調子がどんどん悪くなってね。食べたものは消化しないし、おなかはパンパンに膨れて痛いし、とんでもないときにガスが出るし……。で、まず胃腸病院に行ったのよ」
その病院の医師は腸閉塞だと言った。
「レントゲンフィルムとエコーの写真を持って、すぐ手術した病院に行きなさい」
そして、即入院となったのだが、それが今年の春だったと言う。途中、一度退院したが、また入院し、退院の時期は未定である。
明るくなっていた病室の空気がまたしんとなった。
そして私も麻酔とは別の不安が浮上してきた。
外来では追加治療の必要はないだろうと言われた。でも手術まで四週間もあり、その間に癌が進行するかもしれない。開腹したら筋肉層にも浸潤していたり、卵巣やリンパ節にも癌細胞が飛んだりしているかもしれないではないか。そうしたらレントゲン照射や化学療法だ。私も胃腸が弱いからどうにかなるのでは……。
「癌だった若い子、覚えている」
『古参人』とイエロー・クイーンは顔見知りの患者さんたちの噂話へと移った。あっけらかんとした口調だが、内容は笑って聞いていられるようなものではない。それなのに、二人から生き生きとしたものが放射しているのは、修羅場をくぐりぬけてきた自信だろうか。
「いかにもお嬢ちゃんって雰囲気の子？」
「あの子、春に亡くなった。でもさ、彼女、精神的に大人になっていなかったよね」
「そうだったね」
死に直面したときの様子が感心できないと言っている。
「私も癌なのよ」
思わず私は口を挟んだ。次々に湧き上がる不安を吐き出したい気持ちに駆られたのである。
全員がはっとこちらを見る。ショックというより戸惑っている。
入院するまで何度となく見て来た反応だ。会社の人に病気のことを伝えると、癌イコール死と思うらしく、一瞬ぎょっとする。あわてて慰めようとするらしいのだが言葉が出てこない風だった。
でもここは病院。同室に癌患者がいても不思議はないから大丈夫かと思ったが、リアクションは同じである。もっとも、『古参人』とイエロー・クイーンは「お、あんたも同類かい」と思ったかもしれない。
「でも早期だから……。Iａで、グレードもIなの」
私はあわててつけ加えた。
「じゃあ、大丈夫だよ」
間髪を入れずイエロー・クイーンが太鼓判を押す。すると、皆もほっとした表情に戻った。
「頭ではわかってんだけどね。なにせ心配性なもんで、お腹を開けて癌が進んでいたらどうしようなんて思うのよ。それと麻酔が心配」
私はつとめて軽い調子でもうひとつの不安を口に出した。
「そうよねえ」
イエロー・クイーンの向こうからヤンママが相槌を打った。言葉だけでは物足りないのか、片方のこぶしをもう一方の手に打ちつけている。
「そうよねえ。麻酔は人によってすっごくちがうのよ」
どうやら、一見おしとやかなヤンママも自分の病いを披露したくなったらしい。
彼女は術後四日め。回復は順調だが、病理検査の結果が心配という。
ふつう筋腫はものすごく硬いが、彼女のはブヨブヨなので検査に時間がかかる。高名な主治医は癌ではないと断言したそうだが、病理診断の結果は退院して二週間後にならないとわからないので、いまひとつ安心できないらしい。
「麻酔っていえばねえ……」
ヤンママの声が一段高くなる。
「麻酔っていえばねえ、私なんか八時間も麻酔から醒めなかったのよゥ」
「ええーッ」
待ってましたとばかりに私たちは声を張り上げた。癌ほどじゃないが、何かトピックがありそうだ。
「母がオロオロしちゃったんだって」
「お母さんが心配するのは、当然よォ」
今まで一言も喋らなかったミセス・ソバージュがよく通る声で言った。イエロー・クイーンの真向かいのベッドである。
私とひとつ違いの彼女は学校の先生。きりっとした声に思わず背筋が伸びる。
この人は三日後の月曜日に子宮筋腫の手術を受ける。
「だってさあ、麻酔から醒めなかったら一大事だよ。病気そのものより大変だわ」
全員が本当、本当、と頷く。
お、皆、同じことを考えるんだ、と私は不安が軽くなった気分である。
ざわめきを消すようにヤンママは先を続けた。麻酔にかかりやすく醒めにくいのは血すじだと言う。
「母方の祖母がもっとすごかったの。何でも四十八時間も醒めなくて、親戚中で大騒ぎしたんだって」
幸い、意識障害はなかったそうだ。
「でもね、母ったら、昔のことをトンと忘れていたの。私がすっかり目が醒めて二日ぐらい経ってから、そういえばって言い出すじゃない。もっと早くに思い出せばヤキモキせずにすんだのにねえ」
「それでもお母さんはヤキモキしたわよ。母親ってそういうものじゃないの」
ミセス・ソバージュも母親なのだ。言葉に実感がこもっている。
と、そのとき、私はあることが急に気になり出した。同じ不安でも、病気とはまったく関係ないものである。
「ねえ、麻酔が醒めかかったとき、あらぬことを口走ったりしないかしら」
「……？」
皆、きょとんとして私を見つめる。
「家族が心配そうに覗きこんでいるときに、母も妹も弟も知らないオトコの名前を口走ったりしたらどうしよう。困るわあ」
数秒の沈黙の後、大きな笑いがはじけた。