ああ、自由
あんた、元気にしとったね。
ちゃんと生きてるわ。そんなことより、あんたはまあ、ずいぶん威勢がいいじゃないの。去年の今頃はうっとおしい声を出していたのにさあ。
そらそうさ。退職したとやもん。
そうだね。やっとこさ、退職できたんだものねえ。
何ねえ、その言い方は。何ば言いたかと？ あんたも定年前５年でリタイヤしたやかね。忘れたと？
忘れてないわよ。ちょっとからかっただけ。でも、あんたと私じゃ、退職の原因がちがうから、同列にはできないんだよなあ、これが。
わかっとる。あんたの場合は会社の状態と自分の健康を考えて大決断した。私は、いや、私だって突き詰めれば健康第一さ。とにかくあの職場にいることが耐えられなくなったと。つまり、ストレス。わかっとるやろが。
うん。でも、ストレスなら私だっ同じだったわよ。十年の間に二度も三度も移籍だの、給料未払いなんて状態でしょ。落ち着いて対処したけど、ストレスは相当大きかった。退職を決心したとき、あと１年で寛解という時だったから、決心できたようなものだわね。
あれでよかったとさ。そのまま会社にしがみついとったら、癌は再発せんでも他の病気を抱え込んだかもしらん。
ほんと、ほんと。でも、ふり返るとよく経済的に破綻しなかったなあ。そりゃ、準備はしていたけどさ。
備えあれば憂いなし、さ。
でもね、貯金通帳の数字がどんどん減っていくのは恐怖よ。でも、あるとき居直ったみたい。そして、それなりに知恵は絞ったわ。
自由と引き換えたい。
でも、仕事を辞めてすぐはボケーッとしてたなあ。会社に行かない代わりに、自分で新しい生活のリズムを作らなくてはならない。そしてリズムに慣れるまで時間がかかるのよ。あんたもそうでしょうが。
うん。最初のひと月はなーもできんやった。二ヶ月めごろから、何かする気が起きてきたさ。
何をしてたの。
お片づけ。
一大事業だわね。
まーったく。おっしゃる通りよ。捨てるものと要るものの区分けから始めたとばってん、ノロノロでさ。まーだ完了しとらん。
量がすごいんでしょ。
そうさ。引越しの多かったあんたとはちがって、ウチはこの家からほとんど離れとらんけんね。モノはどっさり。しかも両親やきょうだいたちのものも結構残っとる。
まあ、死ぬまで「お片づけ」するつもりでいないさいよ。
ところでさあ、ちょっと聞いてくれんね。
何？
この自由の味、解放感の何とよさげなこと。こいば誰かに言いたくて、言いたくて。
わかるー。
わかるやろ？ ばってん、人には言えんやろが。皆、定年まで働くという固定観念のこびりついとって、まさかウチがこげん喜んどるとは想像できんらしかけんね。
ことに男性はそうよ。定年後も何とかして仕事にしがみつこうとするもんね。
ある会社じゃ、60歳の定年以後も会社にいたけりゃ、自給１２００円のアルバイトだってさ。
辞めさせようという会社の魂胆が見え見えたい。私やったらそげん条件は蹴る。
でしょう？ ところが実態は、
喜んでその待遇にしがみつく。
そうなんだって。でも、皆の迷惑だよね。だって、昨日まで部長だった男に、どんな仕事を頼めるのよ。普通のアルバイトがする仕事を頼めるわけないじゃない。
よしんば頼んでも、コピーだの書類原稿の入力だの、できるもんね。昨日まで部下にやらせて来たオッサンやろが。
会社のお荷物、日がな一日新聞よんで、お昼ご飯食べて、また新聞とか本を読んで終わり。でもそういうことでも、会社に来たいんだってさ。奥さんもそれを望んでいるらしいわ。亭主が一日中居たら、邪魔でしょうがないらしい。
どっちも頭の硬か。もっと前から定年後をどうするか話し合っとくべきさ。
まあ、先のことを考える人はすくないわね。私は人より５年も早くに辞めて、その間に新しい生活をどう構築するか、じっくり考えらる時間があってよかったと思うわ。
仕事をしながら、人生の次のステージを迎える心準備はなかなかできんかもね。ことに私らの世代は、五十代はリストラで大揺れやったからね。将来のことより、現実に対応するのが精一杯やった人が多かったろうね。
あら、私だってリストラで酷い目にあったわよ。男の人より酷い目に合ったもの。しかも不景気以前だって同世代の男たちから意地悪され続けた。だからリストラされてもあんまり動揺しなかったけど、更年期とぶつかって癌になっちゃったわ。
ばってん、過ぎたことだし、あんたは代わりに大きなものを得たからよかたい。そう思わんば。
思ってるわよう。ただ、あんまりあっさり言われると、リストラされて肉体労働をしていたときの辛さが思い出されるのよ。
わかる。わかっとる。
ま、あんただから言えるんだけどさ。
わかっとるさあ。だから、私の解放感ば実感として理解できるとは、あんたしかおらんと。朝起きて、ああもう仕事に行かんでよかと思うと、心底うれしかっさ。ばってん、こげんこと、人には言えんやったから、もう爆発しそうで。この気持ば汲んでくれんね。
アハハハ。喜んで受け止めてあげまーす。もっとも、お互いさまか。
だけど、ほとんどの人が退屈だろうって言うとよ。だけん、ニタニタ笑いが止まらんなんて、口が裂けても言われんさ。適当に暮らしとりますってごまかすとさ。
私の場合はさ、きっと就職活動しているという思い込みね。私は絶対見つからないと思ってた。だってさ、まだ三ヶ月とか四ヶ月に一度は癌の検査に通っていたから、そんな五十代半ばの女を雇うところなんてあるわけないもの。
しかし、そこまで読んどったけん、よかとさ。だけん、貯金を崩しての生活も耐えられたし、意識改革もできたさ。
あのね、お金がないから知恵を絞れたのよ。たっぷりあったら、ボケてたかもね。
とにかく、私の気分は最高に近い。ストレスから解放されてさ、人生の次のステージへ来たんだという認識が実にいいわ。
じゃ、今度は次の活動が楽しみだわ。また報告してね。
楽しみにしとかんね。
08/03/02