手習いその２
寒いわねぇ。長崎は雪が降ったんだってね。
そっちはどうね。
うちのマンションは大規模修繕の最中で建物全体を白いシートで覆ってるもんだから、雪だか雨だか、よくわかんないのよ。
そいでも、気温の下がれば寒うなるやとが。
コンクリートの箱の中にいると、あんまりピンと来ないのよ。どんなに寒くなっても室温が１０度に下がることはまずないわ。近頃じゃ、寒いかなと思って寒暖計を見ると、１８度か１７度。
よかねえ。我が家は古い木造一軒屋。石油ストーブば焚かんかったら、室温４度よ、ヨンド。
フフフ。毎年同じこと言ってる。ところで、退職して１年以上過ぎたけど、６０の手習いは続けてる？
続けてるわあ。今日もプールに行ってきた。
どのくらい泳げるようになったの？
それがさあ……。
あ、そうか。去年の春は２ヶ月ほど島の病院に助っ人で行ってたっけ。
秋にも１か月ほど。ばってん、土、日は帰ってきて、水泳クラスに行くようにはしとった。
なるほど。フフフ。
何がおかしかと？
あんたが退職したばかりの頃、藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』という時代小説を送ってあげたでしょ。あんたはもう仕事はせんと言ってたけど、きっと主人公と同じように、お呼びがかかると思ったから、あの本を送ったのよ。そうしたら、本当にそうなったじゃない。
そいで笑ったな。
さようでござります。
ま、よかたい。水泳が上達せん理由は、わかっとると。途中で仕事が入ったとか、運動神経の鈍かとかじゃなかとしか思えんとさ。
運動神経が鈍いとは思えないわ。高校時代を思い出しても、普通だったような記憶しかないわよ。
そうやろが。いくら６０歳を超えてるからって、まだ肉体は衰えてはおらん。なのに上達の遅かとは変だと思わん？
おっしゃるとおり。
インストラクターの教え方が下手さ。絶対それが理由と思う。
あら、それは困ったわねえ。お金払ってるのにさあ。
このあいだ早めにプールに行ったら、他のクラスがプールで練習しよっとば眺めとってそう思った。インストラクターの教え方がまるでちがうと。こうじゃなきゃいかんと声に出して言いたかったよ。
そんなに違ったの？
そのインストラクターは、何の練習するかまず生徒に説明して、『ハイ、やってみましょう』で練習開始。それに、生徒一人一人に目を配って、お手本を見せたりアドバイスばする。何度か練習させて大体出来てから、次の動作に進む。見とっても、ようわかると。ああいう指導を受けとったら、うちだって今頃は泳げるようになっとるさ。
でもさあ、そういう教え方って普通じゃないの。
そう思うやろ？ うちのクラスのインストラクターは、ダラダラして、その場しのぎというか、ずるずるべったりな教え方さ。目標も途中の評価もなーもなか。それと、もうひとつ困ったことのあっと。
何？
クラスのメンバーの私語。
ふうん。
皆、私とどっこいどっこいの年齢。午前中のクラスに来よるけん、専業主婦のごたる。いい大人よ。そいがクラスの最中に、ベチャクチャ、ベチャクチャ、大声で喋くって、インストラクターの声の聞こえんとよ。
ウッソウ。
そいだけじゃなか。まだあっと。隣で水中ウォーキングばしよるオバちゃんたちが、平気で話しかけてくる。するとこっちのオバちゃんたちも練習を止めて喋りだす。あたり憚らずデカイ声で。
授業中にプールで井戸端会議というわけだ。
あんた、信じられる？
インストラクターは注意しないの？
するもんね。
なんで。
お客さまには逆らえませんということやろね。注意でもしたらクレームをつけられて、自分の首が危ないと思うてるのかな。
クラスの最中は先生と生徒でしょうに。でもさ、あんたのクラス、まるで保育園ね。水泳のレッスンとは名ばかりで、水泳の真似事をさせて遊ばせているだけじゃない。それじゃ、上達なんて無理よ。
いや、保育園の方がましじゃなかかね。悪戯とか悪いことばすれば、注意するやろ？
そりゃそうだ。だけどねえ、主婦にもいろいろいて、自治会の集まりでも似たようなことがあるのよ。
どげんこと？
司会者や誰かが発言しているのに、大きな声で奥さん同士がベチャクチャやりだすのよぉ。私と同世代のオバさんたちも、もう少し若い世代も。
ヒエェー。そげんことばするけん、女はダメだとか、低く見られるとにねえ。
年齢を重ねるほどにタガが外れるのかねえ。
あんた、タガが外れるのは女だけとは限らんよ。定年後の男で、ときどきおるやん。交通ルール無視したり、会社にいたときの肩書きを振り回して威張り腐ったり。
それにしても、あんたの水泳クラスは困ったもんだね。苦情を言ったらどうなの。あるいはクラスをかえるとか。
無理やね。クラスをかえたら二重にお金ば払うことになる。それに、この狭い土地じゃクレームをつけたり、クラスを途中で変更したりしたら、すぐに噂になる。それも尾ひれをつけて。
それは困る。の数も少ないし。２つしかないんじゃなかった？
もう一つのスポーツクラブは高かっさ。そこまで払って水泳を習う気にはならん。このクラブがちょうどよか。ということは、同じクラブの会員には、同業者や知り合いが多い。目立つ行動は取りたくはなかさ。
なるほどねえ。そういう場合は都会の方が気楽だわ。
ばってん、私はここで生まれて育って、今も住みついとる。これからも同じ。やっぱタガは緩められん。
じゃあ、自力でこつこつ練習するしかないか。
まあね。
練習を続けていると、あるときふっと上達していることに気づくことがあるわよ。私の経験上、断言できる。それに、テレビとかで練習のヒントを得ることもあるしね。ま、がんばってよ。
そうしますよ。なんせ、投資しとるけんね。無駄にはできん。
そうこなくちゃ。じゃあ、夜も更けたからこれで。お休みなさい。
ハーイ。ほんじゃあね。
09/01/22